アルカナの少女

少女は突然やってきた。何故、どうして、このアルカナの世界に来たのか思い出せない。 きっと現実から逃げ出したいことがあったのだろう。辛い事があったのだろう。 しかし、少女は次第に願い始める。もう一度、自分のいた世界に戻ってみたいと……。

カテゴリ: 舞台

 温かな部屋の中で、温かなお茶を出されながら、フィーリアは緊張気味に座っていた。
 非常に広々としたその部屋の内装は、フィーリアにとって映画や絵画で目にしたっきりの豪奢なものだった。
 目の前でティーカップを器用に持ち、穏やかな表情を浮かべている男性もまた身なりがよく、落ち着いてはいるがひと目で裕福であることがフィーリアにも分かった。

 彼こそが、クレメンス博士。
 ニゲルの紹介してくれた、名前のない子ども研究の第一人者である。

「なるほど、話は分かりました」

 震えてはいるが落ち着きのある声で、クレメンス博士は言った。
 横長の瞳でフィーリアを見つめ、羊の顔に薄っすらと笑みを浮かべる。

「名前のない子どもの伝承に惹かれ、研究し続けて長くなりますが、この目でその姿を見るのは初めてです。ようこそ、アルカナへ」

 博士の言葉に、フィーリアはおずおずと頭を下げた。
 そこへ背後にいるニゲルの傍で寝そべっていたルパ姫が何事かをルプスルパ語で唸った。すると、博士は叱られた子どものように肩を竦めたのだった。

「ええ、分かっていますよ、ルパ姫殿下。フィーリア、というのが今のあなたの名前でしたね。元の世界に戻るには、多くの手順が必要となります。私の力でその全てをクリアすることは叶いませんが、出来る限りのことをしましょう」
「ありがとうございます」

 フィーリアがホッとしてお礼を言うと、クレメンス博士は少しだけ表情を曇らせた。

「お礼を言うのはまだ早いかもしれません。ともあれ、明日はパンタシア大学へ向かう予定があります。もしも良ければ、ニゲルたちと共にいらっしゃい。元の世界に戻る前に、このメトロポリスの世界について、ぜひ見て行ってください」
「いいでんすか? わたしが行っても」

 控えめにフィーリアが訊ねると、クレメンス博士は「もちろん」と強く頷いた。

「むしろ、お願いしたいくらいです。きっと学生たちも、あなたのことに興味を抱くでしょう。そうだ。大学にはアルカナ王家の御方も在籍しています。あなたを下の世界に戻すためには、アルカナ王のお力を頼る他ない。微力ながら、紹介いたしましょう」

 ――アルカナ王家。

 フィーリアは緊張を高めつつ、その言葉に頷いた。
 大学という場所は知っているけれど、馴染みはない。いずれ行くかもしれないし、行かないかもしれないという印象しかなかった。
 それだけに、フィーリアはとても不安だった。けれど、そんなフィーリアの心を猫の目で見透かしたようにニゲルはルパ姫と共に近づき、声をかけてきたのだった。

「早くも明日の予定が決まったね。そうとなれば、今日は早く寝て、疲れを癒さないといけないね」

 同意するようにルパ姫が唸り、勇気づけるようにその巨体をフィーリアの小さな身体にすりすりと擦りつけたのだった。
 その強すぎる力によろけつつも、フィーリアは少しだけ笑みを取り戻した。
 初めての場所は怖いけれど、このふたりが一緒ならばきっと大丈夫。

 メトロポリスは非常に大きな都市だった。
 アルカナの中心であり、王族を抱え、天界への扉に繋がる大切な場所……。
 黒猫ニゲルと〈名前のない子ども〉を研究するクレメンス博士のお陰で、少女は元の世界に戻る扉を守っているアルカナ王と面会を果たす。
 
 天使のお告げにより、元の世界に戻れることになった彼女。
 しかし、その道のりが困難なものとなることを、この時はまだ誰も知らなかった。

1.ヒツジの博士
2.パンタシア学院
3.未来を担う者たち
4.母なる大都市
5.元の世界に繋がる場所
6.アルカナ王族
7.天使の言葉
8.鍵を託されし者
9.白い翼と黒い翼
10.白い天使のもとへ

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 我が故郷、四つの根の世界に漂うの不穏な空気は〈清めの門〉で遮られてしまうため、〈夜明けの平原〉アウロラはいつも通り言語のいらぬ美しい世界のままだった。
 とはいえ、この度はそんな美しい光景も、我が心をなかなか満たしてはくれない。ルパ姫さまが黙々と引っ張ってくださる車の中で、私は常にはるか遠くに薄っすらと見える〈母なる大都市〉メトロポリスの姿ばかりを見つめていた。
 そして、ガタゴトと揺られながらクレメンス博士へ報告する内容を頭の中でまとめていた。

 この度も長々とお話することがありそうだ。
 フローラも、サラキアも、プロセルピナも、そして、我が故郷アバンダンティアも、どことなくきな臭い空気が漂っている。
 メトロポリスではそろそろ次代のアンゲルスが選ばれるというのに、四つの根の世界ではこれまで以上に興味がないようにさえ思えた。

 ただ、そうだとしても報告すべき言葉は考えねば。
 特に気をつけるべきことは、感想と情報を混濁しないことである。

 通常行う語りの仕事では一般人が相手である。彼らの多くが求めているのはゴシップであるため、絶対に間違いない情報をそのまま伝えるだけでは飽きられてしまう。
 しかし、クレメンス博士は違う。彼の求めているものは曇りも濁りもない素の情報であり、私の感情が入り込んだものはいらないはずだ。
 ゆえに生業としている語りの能力はしばしの間、封印しなければならない。

 だが、この切り替えは、たびたび私の頭を混乱させるものだった。
 私はいつものように車の中で頭を抱えていた。

 彼女を見つけたのは、そんな時だった。
 真っ先に気づいたのはルパ姫さまで、私は彼女の声掛けによってその存在に気づいた。

 最初はアウロラの果てに暮らす人間の子だと思った。ひょっとすればアウロラの血を引いているかもしれない平原の子だと。
 しかし、それにしては一風変わっていた。彼女は見たこともないような赤い衣装を着飾り、その目鼻立ちもアルカナであまり見かけたことがないような特徴を持っていた。

 迷子ではいけないと思いつつ、私は声をかけた。
 そして返ってきた言葉が、「名前のない子ども」である。

 驚かないはずがない。
 ついつい悪い冗談だと思ってしまい、ルパ姫さまに叱られてしまったくらいだ。
 けれど、冗談を言う子が自分の名前も、慣れ親しんだ場所も思い出せないなんてことがあるだろうか。
 となれば、アウロラに置き去りにするわけにはいかなかった。

 幸い、「名前のない子ども」はクレメンス博士の専門でもある。
 彼ならば然るべき機関で彼女を保護してもらえるよう取り計らってくれるだろう。
 そう思い、私は彼女に短い期間のあだ名としてフィーリアという名前を与え、共にメトロポリスへ向かったのだった。

 パンタシア学院を修了してずっとアルカナを旅してまわってきたが、まさかこの私がこのように言い伝えられた存在を拾うことになるとは思いもしなかった。
 これも何かの縁なのだろう。
 短い間であっても、この貴重な体験を忘れずにいたいものだ。

 メトロポリスがフィーリアにとって良き出会いの場となることを祈って。

追記

 クレメンス博士への報告事項をまとめておく。

 フローラ:妖精たちの聖樹に誰かが危害を加えようとしている。
  ・目的は不明
  ・犯人は妖精と推定
  ・被害は聖樹の健康を脅かすほど

 サラキア:竜王の後継を巡って派閥が生まれている。
  ・血統か実力か
  ・竜王は鱗の病を患っている
  ・龍の試練の時期が近い

 プロセルピナ:亡者たちの神殿が荒らされている
  ・犯人は怪物
  ・討伐に向かった亡者たちが帰ってこない
  ・新しい亡者が神殿に閉じ込められている

 アバンダンティア:住民の毛皮を狙った犯罪が増えている。
  ・犯人は不明
  ・王城に仕える者達まで被害が及んでいる
  ・剥ぎ取られた毛皮の行方も分からない

 アルカナはかつて自然の掟をもっとも尊重する世界だったと考えられている。
 その時代、絶大な権力を握っていたのは〈鱗の都〉サラキアに暮らす竜たちの祖先であった。彼らはラードゥンという大帝国を築き、アルカナのほぼ全域を支配していた。
 ラードゥンでは竜鱗の有無こそが身分の有無を表し、鱗のないものは徹底的に差別されたとの記録があり、アルカナの民のほとんどは厳しい生活を送っていたことが想定されている。

 しかし、そんなラードゥンであっても、温厚な竜王が君臨した時代には特異的な才能を持つ者はたとえ竜鱗がなくとも優遇されたという記録がある。
 特にデルピュネースという竜王の時代は竜鱗や特異的な才能がなくとも安定した生活を営むことが出来ていたようである。

 だが、今より3000年以上前、竜鱗を持って生まれてきたのに冷遇されたと不満を抱いた竜族の一部が徒党を組み、それまで長きに渡って安定して国を導いてきたデルピュネースを襲撃して首を刎ねるという事件が起こった。
 すぐさまデルピュネースの近親が中心となって立ち上がり、賢王の首を刎ねたピュトンとその仲間たちを討伐しようと戦った。しかし、ピュトンとその意思に同調する竜族の戦士たちは非常に手強く、非情な暴力によってデルピュネースの遺志を継ぐ者たちと、彼らに賛同してきた義勇軍も滅ぼされてしまった。

 ピュトンは竜族たちの復権を掲げて新たな竜王を名乗ると、アルカナの民を竜鱗を持つ者と持たぬ者に分け、徹底的な身分制度をまとめ、それをアルカナの民に強要した。
 その制度はアルカナの人間たちにとって非常に辛いもので、一年も経たないうちにデルピュネースの時代の輝きは失われていった。

 そんなアルカナを憂いたのが天使であった。
 アルカナの大地に命を芽吹かせた天使は、ピュトンとそれに同調する竜族の横暴を決して許さなかった。
 そこで、天使は創造主の赦しの下、大地に舞い降りると、まずは正しき教えをアルカナの生き物たちに広めたとされている。

 ※アルカナの天使の正体については諸説あるが、ここでは彼の子孫であるアルカナ王家に敬意を払ってアルカナ神話に則っている。

 メトロポリスに古くから残る記録によると、天使はピュトンたちと直接交渉し、時には剣をちらつかせながら今後の動向を決めさせようとしたという。
 しかし、竜鱗の誇りというものに取りつかれていたピュトンとその側近は、天使に牙を剥きはじめた。そのため、天使と竜族たちの間では七日間の戦争が起こったと言われている。

 天使は竜鱗を持たぬ者や、ピュトンの教えに従わぬ竜族を味方につけると、まずは自分の舞い降りた聖地――現在のメトロポリス全域から取り戻した。
 その後、当時は荒れ地だったアウロラと、門で断絶されていなかった頃の四つの根にあたる領地を取り戻していった。そして、ピュトンたちの勢力を現在のサラキアまで押しやり、さらに追い込んでいったという。

 天使はピュトンの改心を求めたが、ピュトンは最後まで抗おうとした。
 ゆえに、その剣でピュトンの首は刎ねられ、ピュトンと共に竜鱗の誇りを捨てられなかった者たちも彼の後を追うこととなった。
 これにより、ラードゥン帝国の歴史は幕を閉じたという。

 ピュトンがいなくなると、天使は竜族を含めたすべての民族にそれぞれの領地を与えた。これにより、四つの根にある大地の名をフローラアバンダンティアサラキアプロセルピナと決め、それぞれを〈清めの門〉フェブルウスで断絶し、行き来できるものを制限した。
 そして、初めに取り戻した領地をメトロポリスと名付け、そこで人間たちの中でもっとも聖い乙女と結ばれ、三人の娘を産ませ、その成長を見届けてから天界に戻っていったという。

 その三人のうち、母譲りの聖さを宿した末娘のテラは、天使の力を受け継いだ二人の姉を支えながら、生まれ持った愛と知で無力な人々を導いていたが、新天地に都を築いた姉たちの代わりにメトロポリスを統治することになると、人間のみならず全てのアルカナの民の為になる都を築こうとした。
 しかし、その際、亡きピュトンたちの遺志を継ぐ竜族と人間の混血児であるドラコが彼らに牙を剥こうとしたという。

 一説によればドラコはピュトンが気まぐれに人間の娘に手を出した時の子であり、成長したテラに思いを寄せていたとも言われている。そのため、最初は自分と共にラードゥンを超えるような偉大な帝国を築くことを持ちかけたが、テラがこれを拒絶したことで逆上したとされている。

 ふたりの姉とは違い、天使の力を受け継いでいないテラにとって、混血児とはいえドラコの竜の力は脅威であったが、そこで父である天使のお告げを聞き、剣を握ったのが人間の英雄ハーキュリーズだった。
 ハーキュリーズの父親は、天使と共にピュトンを討伐した人間の戦士であった。
 成人後は、テラの護衛として傍に仕え続けたが、ドラコから彼女を守っているうちに二人の間には絆が生まれ、ドラコを討ち取った後に結ばれたとされる。
 これがアルカナ王家の始まりであり、以降、ふたりの子孫たちよりアルカナ王は選ばれている。

 アルカナ王家の統治の下、メトロポリスは現在に至るまでアルカナの中心地であり続けている。パンタシア学院はその象徴であり、アルカナの英知はここに必ず集うこととなっている。
 また、アルカナ史上、いたるところで出現が記録されている名前のない子ども達も、最後にはメトロポリスより繋がる〈天の扉〉カイルスを潜るのだという。

 メトロポリスはアルカナを新しい時代に導く最先端の地であり、同時に古き歴史や信仰を忘れないための地でもある。
 そうあり続けるためには、王族のみならず、メトロポリスに暮らす民のひとりひとりが自覚し、賢く・冷静に・寛容的にアルカナの全体を見つめていかなくてはならない。
 とくにパンタシア学院に通う生徒・学生は、やがてはアルカナの未来を担う者として志高くメトロポリスの空気に触れていくことが求められている。

 メトロポリス。それは、ニゲルによればこのアルカナの中心であるという。
 アルカナに生まれた者ならば、誰だって一度はその地に思いを馳せる。天使が降りたった聖地であり、アルカナを正しき道に誘う天使の子たちの守る場所であるのだと。
 そう語るニゲルはとても誇らしげだった。フィーリアはそんな彼と共にルパ姫の引っ張る車に揺られながら、少しずつ近づいてくるメトロポリスの城壁を見つめていた。

 近づいてみれば見るほど、メトロポリスは果てしなく大きい。
 いったいどんな人々が築いたのかと感心してしまうほど高い城壁の向こうに、さらに高い塔がいくつも見える。
 その一つ一つがはっきりと見えてくると、ニゲルはふと塔のうちの一つ――中央にある時計塔となっている建物を指を差してフィーリアに教えた。

「あれはね、私の母校なんだ。パンタシア学院といって、アルカナで一番多くの英知が集っている場所だ」
「学院って?」

 不思議そうに訊ねるフィーリアに、ニゲルは答えた。

「学校の大きなものだね。大学とも言われている」
「大学? じゃあ、ニゲルはアルカナで一番の大学に通っていたってこと?」

 フィーリアが訊ねると、ニゲルは軽く笑いながら帽子をかぶり直した。
 ルパ姫がちらりと振り替えって何やら唸る。その姿は相変わらずフィーリアにとって恐ろしい姿だったが、この度は何故だか揶揄っているのだと彼女にも分かった。

「そう言うことになるかもしれないね」

 ため息交じりに呟いてから、ニゲルは咳払いをしてフィーリアに語った。

「それはそうと、フィーリア。パンタシア学院では様々な専門家が研究を重ね、学生たちに講義をしている。そんなパンタシア学院で、私がお世話になった恩師の中に『名前のない子ども』について研究しているクレメンス博士という紳士がいる。奇しくも私たちは彼に会いに行く予定でね、もしかしたら君の助けになるかもしれない」
「その博士なら、これからどうすればいいか分かるかな?」

 フィーリアの問いに、ニゲルは口ごもる。
 いくらか言葉を探してから、彼は諦めたように首を振った。

「定かなことは言えない。だが、あのままアウロラの平原で立っているよりは幾らかマシだろう。私に出来ることはこのくらいだ。すまないね、フィーリア」
「ううん、いいの。ありがとう、ニゲル」

 帽子からはみ出た大きな両耳を申し訳なさそうに伏せるニゲルを前にすると、フィーリアにはそれ以上のことはとても望めない。
 だが、不安が消えるわけではなかった。
 そのクレメンス博士という人物は、果たして自分に力を貸してくれるだろうか。「名前のない子ども」の研究をしているという彼は、いったいどんな人なのだろう。

 期待と不安を同時に抱えながら、フィーリアはゴトゴトと進む車の振動を感じていた。
 アルカナの聖地――メトロポリスはすぐそこだった。

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