アルカナの少女

少女は突然やってきた。何故、どうして、このアルカナの世界に来たのか思い出せない。 きっと現実から逃げ出したいことがあったのだろう。辛い事があったのだろう。 しかし、少女は次第に願い始める。もう一度、自分のいた世界に戻ってみたいと……。

カテゴリ: 資料

いかに自信があろうとも、記憶というものは少しずつ劣化し、やがては消えていくものである。
生まれ落ちた瞬間から、我々は老いと死の定めから逃れられない。
しかし、英知というものは時の流れに抵抗し、遥か先の未来へと情報を伝える手段をもたらしてくれるものである。

ゆえに私は、万が一、この頭から消え去ったとしてもすぐに思い出せるように、日々の出来事をこの手帳に記録しておくことにした。
旅は長く果てしないが、その分の発見もまた楽しみである。後に読み返したときに、ここに記される記録が微笑みを浮かべられる思い出となることを私は祈る。

これも天使のお導きか

 我が故郷、四つの根の世界に漂うの不穏な空気は〈清めの門〉で遮られてしまうため、〈夜明けの平原〉アウロラはいつも通り言語のいらぬ美しい世界のままだった。
 とはいえ、この度はそんな美しい光景も、我が心をなかなか満たしてはくれない。ルパ姫さまが黙々と引っ張ってくださる車の中で、私は常にはるか遠くに薄っすらと見える〈母なる大都市〉メトロポリスの姿ばかりを見つめていた。
 そして、ガタゴトと揺られながらクレメンス博士へ報告する内容を頭の中でまとめていた。

 この度も長々とお話することがありそうだ。
 フローラも、サラキアも、プロセルピナも、そして、我が故郷アバンダンティアも、どことなくきな臭い空気が漂っている。
 メトロポリスではそろそろ次代のアンゲルスが選ばれるというのに、四つの根の世界ではこれまで以上に興味がないようにさえ思えた。

 ただ、そうだとしても報告すべき言葉は考えねば。
 特に気をつけるべきことは、感想と情報を混濁しないことである。

 通常行う語りの仕事では一般人が相手である。彼らの多くが求めているのはゴシップであるため、絶対に間違いない情報をそのまま伝えるだけでは飽きられてしまう。
 しかし、クレメンス博士は違う。彼の求めているものは曇りも濁りもない素の情報であり、私の感情が入り込んだものはいらないはずだ。
 ゆえに生業としている語りの能力はしばしの間、封印しなければならない。

 だが、この切り替えは、たびたび私の頭を混乱させるものだった。
 私はいつものように車の中で頭を抱えていた。

 彼女を見つけたのは、そんな時だった。
 真っ先に気づいたのはルパ姫さまで、私は彼女の声掛けによってその存在に気づいた。

 最初はアウロラの果てに暮らす人間の子だと思った。ひょっとすればアウロラの血を引いているかもしれない平原の子だと。
 しかし、それにしては一風変わっていた。彼女は見たこともないような赤い衣装を着飾り、その目鼻立ちもアルカナであまり見かけたことがないような特徴を持っていた。

 迷子ではいけないと思いつつ、私は声をかけた。
 そして返ってきた言葉が、「名前のない子ども」である。

 驚かないはずがない。
 ついつい悪い冗談だと思ってしまい、ルパ姫さまに叱られてしまったくらいだ。
 けれど、冗談を言う子が自分の名前も、慣れ親しんだ場所も思い出せないなんてことがあるだろうか。
 となれば、アウロラに置き去りにするわけにはいかなかった。

 幸い、「名前のない子ども」はクレメンス博士の専門でもある。
 彼ならば然るべき機関で彼女を保護してもらえるよう取り計らってくれるだろう。
 そう思い、私は彼女に短い期間のあだ名としてフィーリアという名前を与え、共にメトロポリスへ向かったのだった。

 パンタシア学院を修了してずっとアルカナを旅してまわってきたが、まさかこの私がこのように言い伝えられた存在を拾うことになるとは思いもしなかった。
 これも何かの縁なのだろう。
 短い間であっても、この貴重な体験を忘れずにいたいものだ。

 メトロポリスがフィーリアにとって良き出会いの場となることを祈って。

追記

 クレメンス博士への報告事項をまとめておく。

 フローラ:妖精たちの聖樹に誰かが危害を加えようとしている。
  ・目的は不明
  ・犯人は妖精と推定
  ・被害は聖樹の健康を脅かすほど

 サラキア:竜王の後継を巡って派閥が生まれている。
  ・血統か実力か
  ・竜王は鱗の病を患っている
  ・龍の試練の時期が近い

 プロセルピナ:亡者たちの神殿が荒らされている
  ・犯人は怪物
  ・討伐に向かった亡者たちが帰ってこない
  ・新しい亡者が神殿に閉じ込められている

 アバンダンティア:住民の毛皮を狙った犯罪が増えている。
  ・犯人は不明
  ・王城に仕える者達まで被害が及んでいる
  ・剥ぎ取られた毛皮の行方も分からない

 アルカナはかつて自然の掟をもっとも尊重する世界だったと考えられている。
 その時代、絶大な権力を握っていたのは〈鱗の都〉サラキアに暮らす竜たちの祖先であった。彼らはラードゥンという大帝国を築き、アルカナのほぼ全域を支配していた。
 ラードゥンでは竜鱗の有無こそが身分の有無を表し、鱗のないものは徹底的に差別されたとの記録があり、アルカナの民のほとんどは厳しい生活を送っていたことが想定されている。

 しかし、そんなラードゥンであっても、温厚な竜王が君臨した時代には特異的な才能を持つ者はたとえ竜鱗がなくとも優遇されたという記録がある。
 特にデルピュネースという竜王の時代は竜鱗や特異的な才能がなくとも安定した生活を営むことが出来ていたようである。

 だが、今より3000年以上前、竜鱗を持って生まれてきたのに冷遇されたと不満を抱いた竜族の一部が徒党を組み、それまで長きに渡って安定して国を導いてきたデルピュネースを襲撃して首を刎ねるという事件が起こった。
 すぐさまデルピュネースの近親が中心となって立ち上がり、賢王の首を刎ねたピュトンとその仲間たちを討伐しようと戦った。しかし、ピュトンとその意思に同調する竜族の戦士たちは非常に手強く、非情な暴力によってデルピュネースの遺志を継ぐ者たちと、彼らに賛同してきた義勇軍も滅ぼされてしまった。

 ピュトンは竜族たちの復権を掲げて新たな竜王を名乗ると、アルカナの民を竜鱗を持つ者と持たぬ者に分け、徹底的な身分制度をまとめ、それをアルカナの民に強要した。
 その制度はアルカナの人間たちにとって非常に辛いもので、一年も経たないうちにデルピュネースの時代の輝きは失われていった。

 そんなアルカナを憂いたのが天使であった。
 アルカナの大地に命を芽吹かせた天使は、ピュトンとそれに同調する竜族の横暴を決して許さなかった。
 そこで、天使は創造主の赦しの下、大地に舞い降りると、まずは正しき教えをアルカナの生き物たちに広めたとされている。

 ※アルカナの天使の正体については諸説あるが、ここでは彼の子孫であるアルカナ王家に敬意を払ってアルカナ神話に則っている。

 メトロポリスに古くから残る記録によると、天使はピュトンたちと直接交渉し、時には剣をちらつかせながら今後の動向を決めさせようとしたという。
 しかし、竜鱗の誇りというものに取りつかれていたピュトンとその側近は、天使に牙を剥きはじめた。そのため、天使と竜族たちの間では七日間の戦争が起こったと言われている。

 天使は竜鱗を持たぬ者や、ピュトンの教えに従わぬ竜族を味方につけると、まずは自分の舞い降りた聖地――現在のメトロポリス全域から取り戻した。
 その後、当時は荒れ地だったアウロラと、門で断絶されていなかった頃の四つの根にあたる領地を取り戻していった。そして、ピュトンたちの勢力を現在のサラキアまで押しやり、さらに追い込んでいったという。

 天使はピュトンの改心を求めたが、ピュトンは最後まで抗おうとした。
 ゆえに、その剣でピュトンの首は刎ねられ、ピュトンと共に竜鱗の誇りを捨てられなかった者たちも彼の後を追うこととなった。
 これにより、ラードゥン帝国の歴史は幕を閉じたという。

 ピュトンがいなくなると、天使は竜族を含めたすべての民族にそれぞれの領地を与えた。これにより、四つの根にある大地の名をフローラアバンダンティアサラキアプロセルピナと決め、それぞれを〈清めの門〉フェブルウスで断絶し、行き来できるものを制限した。
 そして、初めに取り戻した領地をメトロポリスと名付け、そこで人間たちの中でもっとも聖い乙女と結ばれ、三人の娘を産ませ、その成長を見届けてから天界に戻っていったという。

 その三人のうち、母譲りの聖さを宿した末娘のテラは、天使の力を受け継いだ二人の姉を支えながら、生まれ持った愛と知で無力な人々を導いていたが、新天地に都を築いた姉たちの代わりにメトロポリスを統治することになると、人間のみならず全てのアルカナの民の為になる都を築こうとした。
 しかし、その際、亡きピュトンたちの遺志を継ぐ竜族と人間の混血児であるドラコが彼らに牙を剥こうとしたという。

 一説によればドラコはピュトンが気まぐれに人間の娘に手を出した時の子であり、成長したテラに思いを寄せていたとも言われている。そのため、最初は自分と共にラードゥンを超えるような偉大な帝国を築くことを持ちかけたが、テラがこれを拒絶したことで逆上したとされている。

 ふたりの姉とは違い、天使の力を受け継いでいないテラにとって、混血児とはいえドラコの竜の力は脅威であったが、そこで父である天使のお告げを聞き、剣を握ったのが人間の英雄ハーキュリーズだった。
 ハーキュリーズの父親は、天使と共にピュトンを討伐した人間の戦士であった。
 成人後は、テラの護衛として傍に仕え続けたが、ドラコから彼女を守っているうちに二人の間には絆が生まれ、ドラコを討ち取った後に結ばれたとされる。
 これがアルカナ王家の始まりであり、以降、ふたりの子孫たちよりアルカナ王は選ばれている。

 アルカナ王家の統治の下、メトロポリスは現在に至るまでアルカナの中心地であり続けている。パンタシア学院はその象徴であり、アルカナの英知はここに必ず集うこととなっている。
 また、アルカナ史上、いたるところで出現が記録されている名前のない子ども達も、最後にはメトロポリスより繋がる〈天の扉〉カイルスを潜るのだという。

 メトロポリスはアルカナを新しい時代に導く最先端の地であり、同時に古き歴史や信仰を忘れないための地でもある。
 そうあり続けるためには、王族のみならず、メトロポリスに暮らす民のひとりひとりが自覚し、賢く・冷静に・寛容的にアルカナの全体を見つめていかなくてはならない。
 とくにパンタシア学院に通う生徒・学生は、やがてはアルカナの未来を担う者として志高くメトロポリスの空気に触れていくことが求められている。

 アルカナは一本の樹で繋がっているが、それぞれの世界は独立しており、いかに天使の系譜が尊かろうが、フローラアバンダンティアサラキアプロセルピナといった四つの根の世界の人々が常日頃メトロポリスを意識しているというわけではない。
 しかし、そんな彼らを含めて、アルカナのほぼ全ての民が、何日にもわたってメトロポリスの情勢に関心を持つ期間が二つある。
 一つは、アニマとアニムスの選定。そして、もう一つが、ここに記すアンゲルスの選定である。

 アニマとアニムスはアルカナの各地から選ばれる。
 その種族は問われず、七歳の少年と少女の中から選ばれるため、天使の系譜にない四つの根の民たちにとっても他人事ではない。
 ここ長らくユースティティアヴィクトリアから一人ずつ選ばれることが続いているものの、アルカナの歴史上、根の世界から選ばれたこともあるため、ひょっとしたらという空気は常に彼らの都にも流れているようだ。

 しかし、ニゲル君の話によれば、四つのいずれの都でも、それは飽く迄も夢物語として語っているにすぎないという。驚くべきことに、古より尊大な逸話の多い竜の民さえも、どこ吹く風といった具合に見守っているのだとか。

 それが、アンゲルスとなればなおさらである。
 遥か昔この大地に舞い降りた天使の代わりとして999名の精霊たちの声を窺う祭司の役目は、天使の血筋など不要と言われていても、やっぱりその系譜の者がなる場合が多いわけだ。

 現在のアンゲルスはアルカナの先王の弟君であり、高齢である。
 アニマとアニムスの選定が終わって四年。ユースティティアとヴィクトリアから一人ずつという安定感のある選定にほっとしたのも懐かしい。
 だが、またしてもアルカナは緊張感に包まれることになるだろう。

 現アンゲルスは、候補としてあがっている一人ひとりと向き合ったうえで、999名の精霊たちに報告し、彼らの会議が終わるのを待っているのだという。
 その間、精霊たちを感じられるのはアンゲルスだけ。しかし、候補者たちにつきまとう緊張感は誰であっても感じられる。

 ここ数日、パンタシア学院では、アルカナ各地よりアンゲルスの候補者として名指しされた若者たちが集まり、アルカナの伝承に関するあらゆる講義を聴講している。
 その中には当然ながらアルカナ王族の者もいるが、四つの根の世界やアウロラの彼方から呼ばれた者の姿もある。しかし、彼らよりも注目を浴びているのが、ユースティティアとヴィクトリアから呼ばれたそれぞれの候補者であった。

 アンゲルスは恐らくアルカナ王族――未婚の第三王女ヘレナ様であるだろうと考えられているが、万が一ということもある。
 ユースティティアの白鳥王の妹君であるルキア様や、王族の近親というわけではないもののヴィクトリアの黒鳥女王その人からのお墨付きであるという青年ノックスもまた、選ばれる可能性は十分あるだろう。

 次のアンゲルスが決まるまで半年。
 何事もなく決まることを祈り続けよう。

 アルカナに天使が降臨して3000年以上経つ現在、その神秘は今も薄れずに各地に根強く残っている。
 しかし、同じく残されているのが勝利の黒鳥ヴィクトリアが討伐しきれなかった怪物たちの遺恨である。
 天使の教えに同調したアルカナの民と、それに逆らう怪物たちのいがみ合いは古くより続き、この3000年で衰えることも知らない。

 とくに恐ろしいのが、目に見えぬ怪物たちによって生み出された混乱と、それによるアルカナの民同士の醜い争いである。
 近年、メトロポリスのみならず、アルカナ各地で緊迫した空気が漂い続けているのは気のせいではないだろう。
 根が腐れば木は枯れる。
 アルカナの危機には必ず天空からの使者が舞い降りるとされているが、その奇跡を願ってばかりでいてよいものか……。

 学びを深め、パンタシア学院で教えてきただけの私に出来ることは限られているだろう。
 しかし、せめてアルカナを巡るあらゆる事象のうち、気になる事について書き記してまとめて行ってみようと思う。
 この手記も、いつか誰かの役に立つかもしれない。

【アルカナの伝承】
 ・名前のない子ども
 ・九九九名の精霊たち

【アルカナの近況】
 ・アニマとアニムス
 ・アンゲルス

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